中庸についてはいつしかも書いてますが、今回はさらに掘り下げていきたいと思います。
感情と思考は別物ですが、感情が思考に影響を与えることが大いにあり、その逆も然りです。
ですから、感情=思考というひとつの括りで考えています。
中庸は、宇宙の調和みたいなもの、私たち人間が目指す最終形のようなもの。ですから、学ばずして身につくようなものではありません。
そのため頭で考えることは外せません(思考)。「中庸ってどういうことだろう」と。
直接的に「中庸」について考えずとも、「この場がまとまりよくなる方法」だったり、「みんなの意見をできるだけ取り入れたい」、もしくは「自分自身のバランスを取るにはどうしたらいいのか…」という自問自答まで、このようなことは中庸を学んでいることになります。
そのように頭で考えることによって、感情が安定することも沢山あります。誰かの為を思えば受け入れがたい感情を受け入れられることがあるように。
反対で言うと、もし悪感情ばかりであれば、頭で考えることもろくでもない。
ですから感情と思考というのは、連動していると言えるでしょう。
次に魂は、心の声と言われるように、魂=心という括りで私は感じています。
魂は完璧であるかのように思われているようなところもありますが、それぞれレベルがあるので、その人が自分の人生を全うすると言う意味では完璧でも、どの魂も中庸を分かっているわけではない…未熟な魂もあるわけです。
ですから心の声に従った結果痛い目を見ることもあるのは、しなければいけない体験をしなければいけなかったからでしょう。
また、魂が未熟だと、感情にも翻弄され、中庸を選ぶという思考が出てきにくいでしょう。
頭ではこれがいいと分かっていてもそうはできなかったことの経験が皆さまにもあると思います。
すでにお気付きの方もいるかと思いますが、
思考と感情、魂と心、このバランスも一人の人の中で中庸を目指しているのです。
頭だけ働かせても、感情をコントロールできても、心の声が分かっても、全てが成長し続けているのですから、その中のどれか一つを磨こうとしてもあまり意味がありません。
要するに、中庸は知恵として考えを巡らせながら、同時に心(魂)を磨くため人生経験を全うする。
「自分の現実に集中する」というのがやはり辿り着くところであります。
最後に、加害者を許せるような精神性の高い人に感情がないわけでは当然ありません。
一生付きまとうような痛み、悲しみもある中で、その感情も、加害者も、どうにかするのをやめることができたのは、清い思考と心の声が、感情と同等もしくはそれ以上に感じられたからではないでしょうか。
中庸は、楽になるためのものではありません。
結果的に楽になることはあったとしても、楽になることを目的にしては、その見方はもう偏っていて中庸ではなくなります。
本当に、下心なく、清く正しく生きるしかないだけだと、私は思うのです。