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可哀相という価値観

可哀相という価値観は、あまり好みません。

人を可哀相だという目で見るのは、自分は可哀相ではないという認識からか、見下しているか、自分も同じく可哀相だから同情してしまうのか、色々とあるでしょう。

ただ、可哀相だと言われてるときの物事を眺めていると、それを可哀相と言う前にやっている事が悪事であることがあります。

いじめや暴力をしてはいけないのは、相手が可哀相だからの前に、悪事なので駄目でしょう。

何をするにせよ、傷つく事が可哀相なのではなくて、傷つけることをしてはなりません。

不倫相手の奥さんが可哀相だから不倫をしてはいけないのではなくて、不倫がまず駄目なんだというように。

障害者として生まれることは”健常者に比べれば”色々なハンデがあるのは事実ですが、それは可哀相な事なのではなく、それを可哀相だという目で見る人の価値観が窮屈だなと私は思います。

可哀相という価値観があるだけで、可哀相な人なんて一人もいない。

誰かを可哀相だと仕立てるから、可哀相だとされた側を被害者に落とし入れてしまう。

被害者意識で過ごす事には、本来メリットがありません。

とはいえ、心の中でかわいそうだと胸の詰まりを感じることはたまにあります。

そう感じることにより人に慈しみをもって自分に強くなれるのなら、かわいそうだと思ってしまうこと自体が悪いと言いたいのでもありません。

可哀相だという価値観によって、してはいけないこと、留まることを許容しているのなら、「かわいそう」も都合のいい逃げ道になっているなと思うのです。

自分という存在がいくら可哀相な目に合っていても、自分はかわいそうな人ではないんじゃないか。

誰かがいくら可哀相な目に合っているように見えても、その人にだってそこに留まらない力があるはずなんだ。

“そこ”を見出せずして、先に進むことはできないと思うのです。

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