悟りとは

悟りは元は仏教の言葉だと思いますが、今ではスピリチュアルでも多く語られており、そこには特別な期待や憧れを抱かせるようなものを感じている人も多いのではないでしょうか。
私も「悟り」は考えたくなるテーマの一つでしたが、20代の頃ある言葉に出会い、そんな欲も落ち着きました。
やはり腑に落ちるのも仏教の言葉だったわけですが、それが「当処即是道場」…だったと思います。
“ここ”こそが道場、修行の場という意味で、つまり悟りがあるなら常に足元にある…となります。
(法華経 如来神力品より)
「気付いた」より深く響いた時、その物事その一部分において「悟った」と口から出ちゃうことがありますが、そういうのは自然な使い方でしょう。
悟りとは、真理をありのままに観る心の在り方だと思うからです。
悟れば完全でその先の成長がないと思っているならエゴ、欲深い捉え方。生きている以上常に足元にあるのです。
何かを証明したくて「悟り」という言葉を使ってしまうのかもしれませんが(それも自我意識)、もし全てにおいて「目覚めた」「覚醒した」「悟った」と言うならば(それも自我意識…)ある意味、本来の人生を闇に落としてしまいそうです。
それは完全なる自我の確固としたい認識であって、完全に悟っていない証明とも言えてしまいます。
般若心経でも全ては「空(くう)」と言っているのは有名ですが、得た(悟った)と思う心もまた無いのですよと含まれています。
それは自我の限界を説いているとも言えます。
悟りに惹かれて悟りで自分の目をくらませないよう気を付けなければいけません。
ただそこに生きていることが悟りと共に歩んでいるのですから。
人生の上では未来がはっきり分かる事がないように、一歩一歩進まないと先は見えません。一つ一つ悟っていくと言うなら分かりますが、成長するにあたってその質も変わっていきますよね。悟りにこうだよと見せつけるような完成形はありません。
悟りは、饒舌に話せるほど間違いなく自我であり、それが主張や押し付けならばナルシシズム、やっぱりエゴです。これを見極めることも悟りと言えるでしょう。
悟りこそ、ないようであって、あるようでないのかもしれない。
その言葉よりも、日々の小さな気付きを大切にできるかどうか、日々を丁寧に懸命に、そう普通に生きれるかどうかだと思います。
悟りを語るなら、悟りを語ろうとしないのがベストだと私は思う。笑

 




