感謝は良い事だから、ありがとうと感謝していればどうにかなるんだと言っている人がいました。
私が読んできたスピリチュアル本にもそういうニュアンスで書いてる事が多かったかもしれません。
現実に起きてくることを(乗り越えるのではなく?)ポイっと手放して、感謝していればいいだとか、
とりあえず心がこもってなくてもいい、形から入るのでいい、「ありがとう」は言葉の中で一番高波動です、などと。
ですがありがとうを自己満で言ってる時点で低波動ですし、高波動な言葉で問題が解決されいくなら人生楽そうです。
散々苦労していそうな人が食いついているのを見ると、説得力に欠けるようにも思えてしまいます。
癒しを求めるのは構いませんが、あまりおかしなことにハマると大切な事を見失いかねません。
私も、「ありがとう」と言ったり言われたりが好きです。
ですが、「ごめんなさい」も言える自分でありたいし、心から言われて心で受け止められる自分でいられることが好きなのです。
そう、背景があるがゆえの心あってこそではないでしょうか。
そのツールの一つである言葉に、中身がなくて何が魅力的なのか、どこが高波動なのかよく分かりません。
さて、何か特別な事をしているかのように「ありがとう」と書き出したり、もしくは唱えたりしているなら執着ではありませんか。
その奥底には「憎しみ」があるようにも見えてきますがいかがでしょうか。
普通の人が普通に生きていて人と心を交わし、言葉を交わす豊かさを知っているなら、わざわざ紙に書き出したり、呪文のように唱えないでしょう。
暮らしの中で普通であればしないであろう「ありがとう」への執着には、何かしらの期待があるからではありませんか。
概ね、現実でできる事を疎かにし、自分の見たくない内面から目を逸らしていると思いますが、感謝にさえ執着すれば満たされるものはありません。
すべき事を置き換えてごまかしている、分かりやすい一例だなと思いました。
感謝は当然良い事ですが、変なスピリチュアル概念に引っ張られているのを見ると全く意味が違ってきます。
ありがとうと言いながら魂に嘘をつくような質の悪い事をしているとは、全く気付けないのだなと思うのです。