「どう生きようが勝手でしょう」「どう捉えようが自由でしょう」というのをよく聞きます。
ですがそうでもありませんよね。
当たり前の事ですが、誰が見てもいけない事(犯罪など)をしている人がいたら、それはだめだと思うでしょう。
倫理観欠けてるよねくらいのいけない事(浮気、不倫など)をしてる人がいたら、倫理観のある人(人の痛みを知っている人)ならそれもだめだよと思います。
では外見、行動は真面目で何にも悪い事をしていないけれど、内面に憎しみ、恨み、妬み嫉みの悪念、被害者意識を抱え続けているのはいいのでしょうか。
宗教、思想の自由があるのだから、表向き真面目でいれば誰にも迷惑かけていないんだから、心の中でなら人のせいにしていていいんでしょうか。
そしてそもそも皆さんは本当に好きに生きれてますか?
与えられた宿命、予期しない事が起こる運命の中にいるのに、自由だ勝手だと主張するのは抗ってるように見えるのは私だけでしょうか。
「どう生きようが勝手でしょ」も、“不幸な目に合ってる”と思ってる人から聞きます。
そのような人は必ずと言っていいほど本当は愛されたい、大切にされたいのではないでしょうか。
自分は愛を求めてるのに、自分が悪感情を野放しにしているせいで、誰も寄って来ない、誰からも大切にされない、仲間や家族がいてもまずまずな関係が続いているのではないですか。
自分が変わらなければ、自分が真に愛される事はありません。
愛されるような人、幸運な人は、人のせいにしません。
自分の都合の良い事だけを選び取ってもいません、不自由さも受け入れています。そうやって徳も積んでいるから幸運も巡ってきます。
「徳」はただ言われるがまま良い行いをしていても積めません。自分の心の奥底に悪念があっては積めません。
何をしたって見返りの愛を求める事になってしまうからですね。
日頃から清く正しく生きる意識が大切です。人のせいにするのをやめて、自分が悪かったんだと認める事が大切なんです。
上辺だけきちんとしててもダメ、内面から綺麗を磨かなければいけません。
誰にも迷惑かけてないからどう生きようが勝手…と言っているその言葉自体よりも、何故そう言い張りたいのか。
そう言う時こそ、自分が一番迷惑を被っていませんか。成長しようとしない自分へ向けての、魂からの叫びのようです。