生きていれば「なんだあいつ」と思うことがあるでしょう。
ですが、そう思うことが正しいかというと、同じ人に出会ってもそうは思わない人もいるわけでして、その時の自分のコンディションにもよります。
色んな例があるのでしょうが、憎しみ恨みをいつまでも手放せずにいることは、相手に対して悪意を持ちながら、相手に助けを求めているようなもの。
その本人や周りが自分に同情し、助けてくれることを密かに期待していないでしょうか。
無意識であっても、何のメリットもないところに人は留まろうとはしません。
憎んでいる相手を憎み続けるというのは、「私を償ってくださいね」という期待を含み、それは「自分が正しいに違いない」という傲慢な態度で自分を保っていやしないか。
そこに定着してしまえば、身動きが取れなくなります。なぜなら肝心の憎たらしい相手が、その状況で、自分の期待通りの態度を取ることはほぼないからです。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉がありますが、憎くて仕方がない相手からの愛を求めているということ。
ただどれほど長い時間そうしていても、憎しみから愛は得られません。そこから離れ、自分が憎しみ恨みを手放し、愛に持ち変えていかなければ、愛は得られません。
憎しみや恨みを持ち続けるのは、全て自分に返ってくるというのはご存知の方が多いでしょう。
憎しみや恨み、怒りを持ち続けるのは「悪念」となって相手に届くようですね。
私も自分の事に関しては僅かながらそういう念や波動を感じる体質ではあるので、悪念とやらも感じた経験はあるように思いますが、送られてる側がそれで痛い目を見ているかというとそうでもありません。
私でしたら悪念を送られたにしろ、結果的に有難いなと思います。
耐えさせていただけて。体を鍛える意欲も湧いてきます。
実のところ悪念を送られる側は身も心も強くなるばかりです。耐えるという徳も積んで幸せにしかなりようがない。
ですが悪念を溜めに溜めて握りしている側は、意図せずとも相手へとそれが送られてしまい、自分が送ってしまった念が倍になって返ってくる苦しみを味わうことになります。
普通に考えまして、悪意を握りしめながら人生良好な人を見たことがあるでしょうか。
いつまでも憎む、いつまでも恨むというのはいわゆる自滅ですが、当の本人はそんな自分の人生を嘆いている。
これは魂的な事が分かる者からすれば、本当におバカさんになります。
どんなに嫌な目に合いましても、それ以外の道(幸や徳)も用意されていることに気付きたいところです。
自分そのものが現実を作るのだから、何が起きても何が何でも清い心から考える。これが自分のためにも一番賢い手段です。
時折、他人を出し抜き自分だけが幸せになりたいというような人を見かけますが、それも無理があります。
自分が幸せになる道は、他人も幸せになる道にしかありません。
他人に痛い目を見させたい、他人も不幸になってほしいというのは、自分が発したその悪意と他人が感じた悪意の二倍の痛い目を自分が経験する事を願っている、ということなのです。
以前、プロ野球の解説で「相手の好プレーを願いながらプレーしている」というようなことが、耳に入ってきました。
せっかく生かさせていただいてる自分の命をしっかり活かすことを考えるならば、人生も全く同じだと思いませんか。