聖書

無宗教ですが、偶然か必然かキリスト教の学校に通っていたことがあります。
私が行っていた学校では聖書の授業があり、教科書が聖書、普通にテストもありました。
クリスチャンの先生の教え方も良かったに違いありませんが、聖書の授業は本当に楽しかったです。
私は実技の成績が良いタイプで座学は頭悪い感じでしたが、聖書だけはずば抜けて良く、余計際立ってしまったのか「センスがあるんだね」と先生から言われたような。笑
勉強のできる生徒がよく分からないと言う中、前日に聖書を読み込めば簡単に90点代が取れるからなお楽しかったんですね。(単純)
聖書も面白かったんですが、同等にいい思い出として残っているのが立派な礼拝堂で過ごせた事です。
あの中は神聖さと特別感があって、パイプオルガンの音色と響きは綺麗ですし、讃美歌を歌うのも楽しかった。
真剣な信仰心は無くても、授業で聖書から道徳心を学び、神聖な場所で過ごしているというのも少なからず影響しているのか、あまり変な生徒はいた印象がありません。
それ以外の学校ではいじめとも戦っていましたが、キリスト教の学校ではいじめられた事もなくいじめを見かけた事もありませんでした。
ただし、キリスト教だからと言うよりも先生方の尽力なんだと思います。そこで過ごしていた限りですが調和の取れた学校でした。
そんな事を思い出し、何十年ぶりに聖書を開いてみると…懐かしいじゃないですか。
すっかり忘れていましたが、タロットカードの象徴のようなお話しを何個も見かけて、そうよ聖書だものと。笑
それも気が向いたらゆっくり読んでみたいですが、今回はこんな一節をご紹介したいと思います。
多くの人が集まる中、姦淫の罪を犯した女が人々に連れて来られました。律法では石で打ち殺せとありますが、人々はイエスを試すように尋ねます。「あなたはどう思うのか」と。
イエスはしばらく沈黙し、こう言いました。
あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。
ヨハネによる福音書8-7
誰も石を投げる事ができず、一人また一人とその場を去っていきました。イエスと女だけが残り、イエスは女に言いました。
わたしもあなたに罪を定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。
ヨハネによる福音書8−11
姦淫の罪というと現代では不倫や浮気によって他の人と関係を持つことの罪と言えそうですが、イエスは人の心を見ていました。
「みんながやっているからいい」
「一度やってしまったのだからもう同じ」
ではなく、過ちの中にある人の心の真実を見ていたのです。
それは、罪の中で立ち止まるなら赦しは起きない、次に進まないと赦しは起きないということ。誰もが過ちを犯しますが、そこで終わりません。
「もう罪を犯してはいけない」というのは、ルールだから、ただ罪を犯してはいけないと言っているのではありません。
罪人自身が愛と赦しを実践していけるよう、イエスが愛と赦しで罪を扱うのを見せたとも言えるでしょう。
「もう罪を犯してはいけない」というのは、愛と赦しで生きなさいということ。
そうすれば罪を犯すこともないのですから。
※愛と赦しだからといって罪を続けるなら、それは依然として罪の中にいるということです。それは愛でも赦しでもありません。
余談ですが、我が家にも稀に宗教の勧誘が来ます。
それっぽいおばさまが玄関前に立っているのを見て面倒だなと思ったのに、ピンポンに出ちゃった事がありました。
「イエス様の幸せについてをご存知ですか?」と言われたので、何を思ったか得意かもと思い「はい!知ってます!」と答えたんです。(違ったかな?そんな感じということで。わざとではなくて素で出た反応です。)
結構声量もあるからか自信満々だったからか分かりませんが、「あ、そうですか、失礼しました」と帰られていきました。
「語らんのかい!」という突っ込みと同時にこの時に思ったのですが、自分で考え自分で経験し自分のものにしていることが強さであり、どんな偉人の言葉にも変えられない賜物と言えるなと。
言葉にエネルギーが宿るからですね。
このような“教え”はキリスト教でも仏教でも倫理を欠かずに捉えなければ役に立ちませんが、自分にとっての正解はやはり自分で見つけるしかありません。
言葉そのものではなく、生き方の中に息づくかどうか…を大切にしていきたいですね。